偲(しの)ぶこと【第206話】

人は、
亡くなった人をいつまで偲び続けるのだろうか。

1998年、
近所の幼稚園の塀の前に、
いつも花が供えられていました。

そこには、
数年前にバイク事故で亡くなった
若い青年がいたと聞いています。

その光景を見ながら、
私は「人を偲ぶ」ということについて考えました。

亡くなった人を偲ぶことと、残された人の人生

わが家の近くにマンモス団地がある。

団地西側道路の対面に幼稚園があり、
コンクリートでできた塀に囲まれている。

塀の前に、
いつも新鮮な花がポリバケツに
­活(い­)けられている。

みためには、
ひっそりと佇んでいるように置かれている。

数年前、
ここでバイクの事故があり、
若い青年が命を落とした、
と聞いている。

青年は、
団地に住んでいたそうだ。

たぶん団地に住む、
親御さんがいつもそこに花を活けているのだろう。

もしくは恋人か。

人を偲ぶというのは、
文字通り
いつまでも人に思いが付きまとってしまう
ことなのか。

もう事故から数年­たつのだが、
未だ青年に身近な人の思いは断ち切れず、
形となった活け花はみる人に哀れさを誘う。

それは、
私にとって亡くなった若い青年よりも、
思いを断ち切れず悶々としている、
残された人に及ぶ。

たぶん私と同年代であろう親御さんの気持ちは、
察するにあまりある。

彼らの人生は
終わっていないにも拘­(かか)わらず、
下手をすると息子の死によって、
彼らの人生も終わらせてしまっているかもしれない。

それは違うと思うよ、
とはさすがに私もいえない。

子供を持つ親の気持ちは、
子のためであれば、
自分の一生などどうなってもいいくらい、
強い情がどこかにあるものだ。

しかし、
だからといって、
いつまでも拘­(こだわ)り続けるのは、
亡くなった息子の不幸だけでなく、
周りが不幸に染まりかねない。

もし青年に兄弟がいたら、
その子も
幸せにはなれないような気がしてしまうからだ。

体験者でもない私に、
何を言う権利があろうか。

しかし執拗(しつよう)に偲ぶことは、
不幸が不幸を呼ぶ恐れがあると思うし、
せめて残された人は幸せになって欲しいと思うのだ。

私はいつかそこから花が消えることを願う。

執筆日:1998/11/30(月)

編集後記

第206話は、
これまでの記事とは少し違ったテーマです。

亡くなった人を偲ぶことは、
残された人にとって
簡単に終わらせられるものではありません。

1998年の私は、
花を供え続ける人を見ながら、
残された人にもその後の人生があることを考えています。

28年後の今読み返しても、
簡単に答えを出せる問題ではありません。

だからこそ、
当時の自分が感じたことを、
そのまま残しておきたいと思います。

👉次回記事「第207話」はこちら
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