人は、
亡くなった人をいつまで偲び続けるのだろうか。
1998年、
近所の幼稚園の塀の前に、
いつも花が供えられていました。
そこには、
数年前にバイク事故で亡くなった
若い青年がいたと聞いています。
その光景を見ながら、
私は「人を偲ぶ」ということについて考えました。
亡くなった人を偲ぶことと、残された人の人生
わが家の近くにマンモス団地がある。
団地西側道路の対面に幼稚園があり、
コンクリートでできた塀に囲まれている。
塀の前に、
いつも新鮮な花がポリバケツに
活(い)けられている。
みためには、
ひっそりと佇んでいるように置かれている。
数年前、
ここでバイクの事故があり、
若い青年が命を落とした、
と聞いている。
青年は、
団地に住んでいたそうだ。
たぶん団地に住む、
親御さんがいつもそこに花を活けているのだろう。
もしくは恋人か。
人を偲ぶというのは、
文字通り
いつまでも人に思いが付きまとってしまう
ことなのか。
もう事故から数年たつのだが、
未だ青年に身近な人の思いは断ち切れず、
形となった活け花はみる人に哀れさを誘う。
それは、
私にとって亡くなった若い青年よりも、
思いを断ち切れず悶々としている、
残された人に及ぶ。
たぶん私と同年代であろう親御さんの気持ちは、
察するにあまりある。
彼らの人生は
終わっていないにも拘(かか)わらず、
下手をすると息子の死によって、
彼らの人生も終わらせてしまっているかもしれない。
それは違うと思うよ、
とはさすがに私もいえない。
子供を持つ親の気持ちは、
子のためであれば、
自分の一生などどうなってもいいくらい、
強い情がどこかにあるものだ。
しかし、
だからといって、
いつまでも拘(こだわ)り続けるのは、
亡くなった息子の不幸だけでなく、
周りが不幸に染まりかねない。
もし青年に兄弟がいたら、
その子も
幸せにはなれないような気がしてしまうからだ。
体験者でもない私に、
何を言う権利があろうか。
しかし執拗(しつよう)に偲ぶことは、
不幸が不幸を呼ぶ恐れがあると思うし、
せめて残された人は幸せになって欲しいと思うのだ。
私はいつかそこから花が消えることを願う。
執筆日:1998/11/30(月)
編集後記
第206話は、
これまでの記事とは少し違ったテーマです。
亡くなった人を偲ぶことは、
残された人にとって
簡単に終わらせられるものではありません。
1998年の私は、
花を供え続ける人を見ながら、
残された人にもその後の人生があることを考えています。
28年後の今読み返しても、
簡単に答えを出せる問題ではありません。
だからこそ、
当時の自分が感じたことを、
そのまま残しておきたいと思います。
👉次回記事「第207話」はこちら
師走|1998年を「復活の年」と振り返る


