会議は、
本来「決めるため」に存在する。
しかし現実には、
責任を曖昧にするための場になってはいないだろうか。
誰も責任を取りたがらない組織。
その空気が、
日本のサラリーマン社会には
深く根付いているのかもしれない。
責任分散するサラリーマン社会
会議というものがある。
広辞苑などでは、
なにかを決めるため集まって話し合うこと、
とある。
他の辞書をみても、
要は決め事をするために集まることなのか、
といまさらのように再認識する。
現実はどうか。
なかなかそんなものとは縁遠い会議が多すぎる。
トップの同席する会議は、
会議ではない。
なぜならば、
決め事をするために集まっているのではないからだ。
部下を無能呼ばわりしたり、
叱り飛ばしたりする。
そんなことのために忙しい社員を、
大勢周りに集めている。
と、言いたいくらい会議になっていない。
小田原評定というが、
現在の会議はまさしく当てはまっている。
また、稟議(りんぎ)というものがある。
ふたたび広辞苑では、
会社などで所定の重要事項について、
決裁権を持っている重役などに
主管者が文書で決済承認を求める。
と、ある。
大勢の部長、役員が連座して
責任を分散させる。
責任の濃さを薄めてしまう。
誰が責任者だかわからなくさせてしまう。
こんなことをしていたのではだめだ。
でも、よくよく考えてみると、
責任を薄めるシステムこそが、
日本のサラリーマンの特徴なのかもしれない。
こうすることで、
ほとんどのサラリーマンが、
つつがなく定年まで生き延びることができた
ともいえるのか。
昔の村組織と同じ閉鎖的な社会である。
そこではみ出た者は、村八分にあうわけだ。
これからは、
サラリーマンといえども、
こんな会議や稟議は止めるべきだと思う。
そして、もうこんな
会議や稟議で仕事を動かすのが厭ならば、
サラリーマンを辞めるしかない。
私のように。
千日あれば絶対にできる。
確信している。
執筆日:1998/07/11(土)
編集後記
責任を分散すれば、
確かに組織は安定するのかもしれません。
しかしその一方で、
決断する力や、
変化する力を失っていく。
これからの時代は、
「誰の責任か」を曖昧にしない働き方が、
必要なのだと思います。
👉第65話はこちら
なぜ政治に期待できなくなったのか|責任分散する日本社会とサラリーマン組織

