サラリーマンとは何だろうか。
毎日会社へ行き、
決められた仕事をこなし、
給料をもらう。
それだけの存在なのだろうか。
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サラリーマン。
日本語で言うと、月給とり。
と、広辞苑にも出ている。
つまり報酬を月給でもらっていれば、
すべてサラリーマンということになる。
であれば、
自分の会社から月給を支給されているオーナー社長も、
サラリーマンであろうか?
否である。
つまり、こうだ。
オーナー社長が酒を飲みながら愚痴って、
「我々サラリーマンはな――」とか、
「サラリーマンなんだからしょうがないじゃないか――」
などとは決して口にしない。
聞いたこともない。
たまに「私もサラリーマンのはしくれです」と言ってみても、
あくまでもサラリーをもらっている人、
という文字どおりの意味でしかない。
日本語としての「サラリーマン」は、
もう少し意味が深いと思う。
もちろん月給とりに違いはないのだが、
事業の全権は持たず、自分で自由にできることも少ない。
ひきかえに、法律に触れていない限り、有限の責任で終わる。
要するに、
全権がない代わりに責任を軽減されているとも言える。
辛気くさい宮仕えと言われる所以である。
いわゆるサラリーマンとして入社し、
社長になったケースで「サラリーマン社長」がいる。
この場合も全権は与えられておらず、
うしろに影のトップがさまざまな形で存在することが多い、
と聞く。
オーナー社長や跡継ぎ社長は、そうはいかない。
法的には有限の場合も、
実際にはすべての責任を負わなければならないからだ。
江戸時代、
日本の月給とりは扶持(ふち)を食み、
代々絶やさずに守っていた。
現代、
月給とりが
月給のために代々守らなければならないこと
など一切ない。
武士の時代、
家を断絶させないようにしたのは、
月給生活を
子々孫々まで保証してくれる仕組みに
しがみついていたからにほかならない。
武士道云々というかもしれないが、
それは後から美化されたものだろう。
現実の生活は、
「食べなければならない」という
切実な問題に立脚していたのではないか。
しかし、
わずかでも扶持を食んでいる以上、
上司には絶対服従。
ときには自分の死をもって、
家を守らなければならなかった。
彼らが、
いまのサラリーマンよりも
命がけであったのは明らかだ。
現代日本のサラリーマン社会には、
江戸時代の武家社会の名残がある。
ただ、仕官先(就職先)が増え、
脱藩(辞職)に命をかける必要がなくなっただけだ。
会社は藩であり、オーナー社長は殿様である。
そう考えると、この構造は昔と何も変わっていない。
世襲制度が多いのも同じだ。
既得権が幅をきかせる、
前近代的な感覚といわざるを得ない。
サラリーマンは、
その他大勢の代表格である。
それ以上でも、それ以下でもない。
平凡であり、同時に悲哀にも満ちている。
40年前後のサラリーマン生活を無難に乗り切れば、
私たちの人生はそれで終わりなのだろうか。
サラリーマンとは、一体何なのか。
この1000日の中で、答えは出ないかもしれない。
しかし、輪郭くらいはつかめるはずだ。
そのとき——
私はサラリーマンから解放される。
執筆日:1998/05/09(土)
編集後記
サラリーマンとは何か。
その答えは一つではない。
しかし、
その問いを持つことこそが、
すでに「解放」の第一歩なのかもしれない。
👉第2話はこちら
人間関係|群れをなしてつるむこと

